Haiku University Haiku college

at 3-4-7ポレスター宇都宮中央901, Utsunomiya-shi, 320-0806 Japan

俳句における詩的創造性が持つ言葉の力を再評価し、現代社会における言語文化の再興を目指します。


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Utsunomiya-shi , Tochigi 320-0806
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平成27年度からは、新たに俳句講座や句会指導などのカリキュラムを作成する予定です。ネット上だけでなく、実際の講義や句会を通して初心者から俳句を学べる体制を整える予定となっております。

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  雲                         五島高資  近頃、夏目漱石の『草枕』に嵌っている。これは何度読んでも良い。ついにその「おふろで読む文庫本」版を買ってきては風呂の中でも読んでいる始末である。たいていは湯気のなかでたまたま捲ったところからのつまみ読みだが新たな発見に莞爾とすることも少なくない。少々長くなるが最近感じ入った一節を次に引用する。   普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は  物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ  心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好  なる対象を択ばなければ。しかるにこの対象は容易に出て来な   い。出て来ても容易に纏らない。纏っても自然界に存するものと  は丸で趣を異にする場合 がある。したがって普通の人から見れ   ば画とは受け取れない。描いた当人も自然界の局部が再現したも  のとは認めておらん、ただ感興の上した刻下の心持ちを幾分でも  伝えて、多少の生命を惝怳しがたきムードに与うれば大成功と心  得ている。古来からこの難事業に全然の績を収め得たる画工があ  るかないか知らぬ。ある点までこの流派に指を染め得たるものを  挙ぐれば、文与可の竹である。雲谷門下の山水である。下って大  雅堂の景色である。蕪村の人物である。  明治三三年(一九〇〇)から二年間、漱石は英国に留学したが、かつて世界一の経済大国を誇った英国も斜陽にあり、芸術面でも象徴主義が爛熟期を迎えていた。『草枕』において漱石が画家に志向させた「第三の画」とは、西洋における写実主義や象徴主義、そして、その根底にある主知主義的な態度とは違う次元の画境が見据えられていたのである。奇しくも明治三九年(一九〇六)に『草枕』が発表された前年にパリでフォーヴィズムが勃興したが、主客といった二項対立的観念を超克する画境の出現は、大正一四年(一九二四)のシュルレアリスム宣言を俟たなければならなかった。  もっとも、「第三の画」と言っても、漱石の狙いはむろん絵画のみに対する謂いではない。『草枕』のなかで画家はついにたった一枚の絵も完成しないのである。要は諸芸術に通じる志向性の問題なのだ。そして、実はその至境の扉を開く秘鑰となるのが「雲」なのではないかと私は思っているのである。  『草枕』には、「雲」という文字が全部で三九回も出てくる。例えば「雲烟飛動」だが、周知のようにこれは書道の草書における自由闊達な筆勢を言う。極めて東洋趣味的であるが、明治末期にしてすでに欧化の著しかった文化芸術にあって、ある意味で新鮮な再発見をもたらしたことは想像に難くない。しかし、それでもこうした漱石の先取的感覚は当時の日本にあっては尚早と言わざるを得なかったのも事実である。漱石は前述の趣向を「低徊趣味」と名付けて、それが高浜虚子の小説に多く見られると指摘したにもかかわらず、虚子がついに小説家になれなかったことはその証左である。雲蒸龍変のためには、そこには飛動が大事であり、それは名筆には優れた躍動感が備わっていなければならないということなのかもしれない。なるほど、『草枕』は、有名な冒頭の〈山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。〉という部分からしておおよそ五七調で書かれており、全体もリズミックに流麗である。また、後に虚子の「低徊趣味」が俳句という韻文文学において活かされたことも納得される。  ところで、『草枕』には、雲雀のことも書かれている。これも文字面のみならず「雲」と大いに関わっている。主人公の画家はこう述べている。   雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。  登り詰めた 揚句は、流れて雲に入って、  漂うているうちに形は消えてなくなって、  ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。  〜中略〜雲雀の声を聞いたときに魂のあり  かが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くの  はない、魂全体が鳴くのだ。  つまり、眼前の雲雀は仮象に過ぎず、その本性はその鳴き声にあり、しかも、それは個体やそれに伴う自他をも超越する根源的な生命活動として発声されるというのである。  ここまで来て「雲」に込められた大事に気づく。それは、夕日に染まり月を隠す「空間性」と、生滅や漂流における「時間性」を「雲」が併せ持つということである。つまり、それは、絵画性と音楽性、あるいは静と動の具有と言ってもよい。ここで私は、ジョアン・ミロの《黄金の中の青に囲まれた雲雀の翼が、ダイヤモンドで飾られた草原に眠るひなげしの心に舞い戻る》という長い題名の大作を思い出す。ミロは最初に題名を決めてから絵を描く画家ではないが、制作の初期に題名を思いついて、そこから派生する詩的着想が作品にフィードバックされることもあると述べている。また、ローランド・ペンローズは、《黄金の》に関して、「それ(詩的着想との相乗効果)は、眼に見える色彩以上のものを生む。我々はもはやこの世に居るのではなく、雲雀の陽気な様に歓喜し、意識はもはや現実から離れ、高いところから見下ろし、一面に広がる青々とした草原の中の小さな一輪の赤い花のきらびやかな様に驚嘆しているのに気づく。その時、我々はめまいを起こす。〜中略〜そこに空間や動きや草原の営みに対する新たなメタファーを同時に作り出すのである」と喝破した。実はこの「めまい(眩暈)」こそが二項対立的な固定観念や通念からの解放に重要な現象なのだと思う。つまり、そこにおいて、前述したような「空間性」や「時間性」なども含めて是非の及ばぬ次の次元への扉があるのだと思う。眩暈の「暈」には、「くま」と読んで、深奥、心奥、雲、光陰が接するところなどの意味があることを思えば、漱石がなぜ「雲」にこだわったかが分かるような気がする。因みに、『草枕』は、峠越えの場面から始まるが、芭蕉にこんな句がある。   雲雀より空にやすらふ峠かな   芭蕉    奈良と吉野の間にある臍峠での吟であるが、雲雀が上がる空よりも高い峠に憩う芭蕉はまるで仙境にでもいるかのような心地だったのかもしれない。まさにそこは有無を超えて「空」へ至る雲関だったに違いない。          *  最後に『草枕』のなかで私が最も好きな一節を掲げて筆を擱きたい。     やはり面のあたり自然に接して、朝な夕  なに雲容煙態を研究したあげく、あの色こ  そと思ったとき、すぐ三脚几を担いで飛び  出さなければならん。色は刹那に移る。一  たび機を失すれば、同じ色は容易に眼には  落ちぬ。余が今見上げた山の端には、滅多  にこの辺で見る事の出来ないほどな好い色  が充ちている。       初出 : 「たいせつな風景」8号 神奈川県立近代美術館

Published on 2014-07-31 08:52:50 GMT

球磨の俳人井上微笑 -地方からの発信=中央俳壇に衝撃を与える-                          永田満徳                             俳句との出会い  井上微笑。本名は藤太郎。慶応三年(一八六七)、福岡県甘木市(現朝倉市秋月)に生まれ、福岡中学・英吉利法律学校(現中央大学)に学び、明治二十五年(一八九二)、球磨郡湯前町役場の書記となり、七十歳の生涯を閉じるまで湯前の地を離れることはなかった。明治三十三年、微笑三十四歳の時、紫溟吟社の第四回兼題「更衣」(夏目漱石選)と第五回兼題「蚤」(松瀬青々選)に初入選を果たす。「此の処女作は一句麗々しく他と列記発表された。次が松瀬青々選の蚤、それにも一句出た。私は鬼の首を二ツ取った」(「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号)と述べているように大変な喜びようで、この入選を契機にますます句作に熱中する。微笑の俳句熱に油を注いだのは、多良木の郡立病院長須藤郷生や薬局長田代紫浜、医者久木田杉門等と知り合いになったことである。彼等が作っていた白扇句会に参加するようになり、後には微笑がこの句会の中心的な役割を担うこととなる。   井上微笑と白扇会報  「白扇廻報」は明治三十六年に創刊され、「白扇回報」・「白扇会会報」「白扇会報」とその名称をわずかに変えながら、四十一年に終刊する。「白扇会報」は紙代・送料以外すべて私費によって発行されている。「白扇会報」の最盛時の会員数は五三七名に及び、北は東北から南は台湾まで、日露戦争中は戦地に送られた。この俳句雑誌が日本の近代俳句史上で特筆されるのは、会員の中で近代俳句を推進した人々が名前を連ねていることである。選者、寄稿者を列挙してみると、夏目漱石・高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・坂本四方太・石井露月・松瀬青々・野田別天楼・寒川鼠骨等。これらの人物はいわゆる子規派、新派俳句と称される人々である。   井上微笑と夏目漱石  「白扇会報」の大立役者は夏目漱石である。微笑は漱石に対して選句、俳句の寄稿を頼んでいる。漱石にとっては英国帰国直後より『吾輩は猫である』で作家デビューするまでの、慌ただしい三年の間であったにもかかわらず、自分自身が依頼に応じられない場合は高浜虚子、河東碧梧桐らを紹介している。夏目漱石書簡は、現在七通存在している。明治三十六年五月十日付の第一書簡から明治三十八年一月五日付の最終書簡である。その第三書簡では「拝啓、白扇会報第九号わざわざ御送付被下難有存候、右会報は活版ならぬ処大に雅味あるやに虚子とも申合候、内容も面白く拝見仕候、近頃地方俳句会の吟什見るべきもの多く、却つて本場の東京を凌ぐ佳句もまゝ見受候様に存候、ほととぎす抔にても地方俳句会の句の中には大にふるうて居るのがあると先日四方太と話し申候」と書いているように、「白扇会報」を最大の賛辞とも受け取れる言葉で誉めそやしている。このように、一地方誌に過ぎなかった「白扇会報」を中央俳壇に押し上げてくれたのが夏目漱石であった。当時、湯前という僻遠の地で、中央俳壇に衝撃を与え、広範囲の読者を得ることができた事実は無視できない。   白扇会報と中央俳壇  ところで、正岡子規の俳句革新が明治三十年創刊の俳誌『ホトトギス』と新聞『日本』俳句欄を根城に展開されたことは周知の事実である。子規の病没後、碧梧桐が『日本』俳句欄を、虚子が『ホトトギス』を受け持つわけだが、四十年頃から碧梧桐が従来の五七五調の形にとらわれない新傾向の句を発表するようになり、虚子が碧梧桐派の行きすぎを尻目に、大正元年頃から〈守旧派〉の立場を明らかにして俳壇に復帰し活動を開始する。こうした中央俳句界の動きと「白扇会報」の活動時期とを重ねてみると、この時期は、碧梧桐と虚子との対立が激化する前の、子規派、新派俳句の幸福な時期であり、俳句革新運動の黎明期であったことが浮かび上がってくる。こういう時期であったがゆえに、「白扇会報」が新派俳句の有力な人達を選者・寄稿者に加えることができたのだろう。その意味から言っても、この「白扇会報」は当時の研究資料として大変貴重である。   俳句の信者  「白扇会報」終刊後、微笑の才能を惜しんだ友人の斡旋で、九州日日新聞の「新俳壇」の選者になったが、二年で広瀬楚雨にゆずってしまう。中央俳句界の激しい動きの中、俳句における「九州の四天王」のうちで微笑ただ一人最後まで有季定型を守り続けた。「私は多年俳句の信者である。(中略)私は恐らく俳句を一生棄てないであらう」(「俳句ニ就テ」)とまで言い切る俳句への強い執着にただ感心するばかりである。これは、本人の一徹な性情によるものであるけれども、漱石によって俳句開眼した時の喜びと有季定型を守った漱石への信奉をその後も長く持ち続けたということもできよう。 最後に「白扇会報」時代の代表的な句を紹介しておきたい。   抱く雛に小さき寝息のかかるなり   鮟鱇の口開けしまま別れけり   閻王の一喝や牡丹崩るべし   どうろこうろ今朝蟷螂の生れけり   まひまひや我が思ふ字に舞ふて見よ 微笑の俳句は、淡々とした中に滋味あふれるものが多く、精読して初めて理解できるしろものである。         

Published on 2014-07-16 03:38:35 GMT

小泉八雲と日本の韻文                             永田満徳                          初めに  木下順二の小泉八雲研究は、旧制熊本中学五年(順二18歳)の時、『江原』(1932年12月)に発表された「研究 ラフカディオ・ハーン 其の研究の一班」と題する長文の論文に見ることができる。順二の八雲観は「外国人のバタ臭味から完全に脱却して日本人の心になりきつた強い意味を示す「染み」だ」と言い切ったところに最大の功績がある。しかし、八雲に対する評価において、八雲の文学が「日本人の心になりきつた」という言葉は何も順二に限らず、多くの論者が指摘するものである。ただ、『夕鶴』で国民的劇作家になった順二にとっては、この研究が順二の民話劇に影響を与えた点では大きい意味を持っている。 一 東洋への愛  八雲が西洋人でありながら、順二をして「日本人の心になりきつた」と言わしめるほどの、日本理解を示しえた理由の説明として最も的確なのは、教え子である田部隆次の「母親のおぼろげな記憶はいつもやさしく、思慕の愛情にあふれており、後年、ハーンが東洋の一切の事物を愛す原因となった。ハーンによるとたまたま『生まれた場所が東洋で血も半分は東洋であった』からである」という文章であろう。八雲の東洋への「愛」に影響を及ぼしたのは「母親」であるという田部の恩師に対する理解は、ロジャー・スティール・ウィルソンが「ハーンの西洋文明に対する疑問と不信」(注1)において、「シンシナティで見捨てられた青年だった頃、彼の父は、酉洋のすべて悪いもの、彼の母の東洋の遺産は、良くて正しいことすべてを体現していた。彼は若い記者になった時、これらの二つの世界にひっかかっていた。非同情的な現代文明の犠牲者へのハーンの感清はこれらの状況から起っているのだろう」と述べ、「母の東洋の遺産」に触れていることと大差がないことからも納得できる。ただ、八雲の日本の文化に違和感なく入り込めた根本的な要因では、この母の存在以上に重要なのは「コノート出身の乳母」である。 二 ケルト文化と俳句  ポール・マレーが「ハーンのイェーツとの文通を通してダブリンで小さい少年だった時ハーンはアイルランドの妖精の話や幽霊の話をしてくれるコノート出身の乳母を持っていたことを私達は知る。このようにして一生続く民俗的なことへの関心が始まったのである。実際、アイルランドを含めた前工業的世界の多くでは普通のことである妖精の話は、ハーンが後に日本分析の中心にした日本の古代宗教の神道とある点で似て、生きているものに、平行して存在し、時々作用を及ぼしているあの世からなっている」と「講演」(島根大学、1995・11・5)で話しているのは注目に値する。八雲の経歴を閲するまでもなく、父の生地であるアイルランドのタブリンに二歳から四歳に掛けて住んでいたことは周知の事実である。わずか二年間であったけれども、「三つ子の魂百まで」という言葉がそっくり当て嵌まるように、「コノート出身の乳母」による「アイルランドの妖精の話や幽霊の話」は深く刻み込まれることになる。  ポール・マレーが同じ講演で話していている「ケルトの妖精の信仰は『ロマンティックで詩的で、またものすごい』想像力に起因している。彼のアイルランドの農民生活の見解はまた明治前の日本の神道に基本を置いた精神にかなり似ている」という部分を参考にして、ケルト文化と俳句との繋がりを考えるとすれば、日野雅之が『大谷繞石』(2009・9、今井出版)のなかで触れている「アイルランドの樹木や岩や川に魂があるというアニミズム(精霊信仰)を大切にしたケルト文化の妖精の話を乳母から聞いて育ったハーンにとって自然を詠む日本の俳句はケルト文化と共通するものがあったと思われる」という文章は大いに共感できる。 三 日本の韻文(俳句)  そこで、八雲と日本の韻文、特に俳句の関係を考察してみたい。 そのためにはまず、俳句の基礎知識として挙げなければならないのは季節・季語・季感の問題である。「俳句への一歩」(平九年七月、俳人協会)を基にして説明するとする。日本人は知らず知らずのうちに季節に敏感になっている。例えば、「風鈴」の音色に涼しさを感じる消夏法などは、日本の季節・風土がつくりあげた感性によるものである。日本文学と季節・季語では、日本文学が古来季節と深い関わりを保ちながら形成されてきた。季節を「季語」という美学に置きかえて文学に作り上げたのが俳句と考えてよい。就中、重要なのは季語の働きである。一句の中には、季語が必ず一つある。李語が作品の中で作用しているはたらき・色あい・雰囲気などと季語の背景(成立までの過程)や、季語の周辺(風土の中での存在性)をも含めて詠み、味わう。その季語を総合的に網羅したのが「歳時記」である。膨大な量の季語群に丹念に眼を通してゆくと、日本人の生活美学が作り上げた美しい季語に出会うに違いない。時候・天文・人事・宗教・動物・植物というものが採り上げられていて、百科全書の観がある。 四 俳句鑑賞  俳句鑑賞において、日本人と八雲を比較してみると、八雲の日本の韻文、特に俳句への理解の特色が見えてくる。  日本人の場合、ここでは、「俳句への一歩」の鑑賞文をそのまま借りて抜き出し、A~Cの記号を付けて、分析しやくすくする。   金亀子擲つ闇の深さかな  高浜虚子  A いろいろ種類もあって、紫金色・赤鋼色・黒褐色などある。夏の夜など、うなりながら灯に飛んで来て、ポタリと落ちたりする。拾って窓外へほうり出すと又やって来たりするし、なかには、つかまると死んだ真似をするものもあるという。  B この句の「金亀子」もまさに、こうした「こがねむし」で、灯を求めて戸外の闇からやってきた「金亀子」を作者は闇へほうり投げて帰してやったというのである。畳の上に落ちた金亀子を掌にとると、金亀子はジッとして動かない。そこで縁側までたっていって、漆黒の夏の闇に向かって、大きくほうり投げてやる。はじめはただの小石か物のように、投げられたごとく宙を進んだ金亀子は、途中から、翅をひろげて、いかにも重さのなくなった物のごとく、闇の奥へ飛びはじめ、座敷の灯の及ばぬ闇へと消えていったというのである。  C 何でもない、只のことがらを叙しているようではあるが、投げたものが地上にぶつからずに消えてゆくという、手応えのなさから闇の無限の深さを感じとったことにも留意したい。実際に金亀子を投げた経験が土台になければ作り得ない句といえよう。したがってこうした句は鑑賞する側も、その経験の有無によって、その感じ方に違いがあるかも知れない。【金亀子=夏】   日本人による俳句鑑賞にはある型がある。まず、書き出しのAで、「金亀子」の昆虫学(学問)的な習性と内容などを説明し、Bでは、句の状況を具体的に述べて、Cにおいて初めて、虚子の句の鑑賞に及び、名句たる所以を説き明かす。A・Bは客観的な記述に徹し、Cは鑑賞者の力量が試されるところで、どちらかというと、主観的な記述をとなることが多く、どれだけ納得させ切れるかが問われる。  八雲の俳句鑑賞  八雲は俳句については、長澤純夫編訳「小泉八雲 蝶の幻想」(1988・9、築地書館)のなかで、「俳句に関するほとんど唯一のものと思われる約束事は――別にそれはきびしいものではないが――俳句はことばで描いた一幅の小さな絵でなければならない、――見たり感じたりしたものの記憶を再生きさせるものでなければならない、――感覚上のある経験に訴えるものでなければならないということである。これから、わたくしが引用する俳句の大多数のものは、まさにこの要求を満たしており、読者は実際にそれらが絵であることを――浮世絵派の手法による小さな彩色版画であることを発見するであろう。たしかに次に掲げる俳句のほとんどいずれも、日本画の巨匠の手によれば、ほんのわずかな筆致で、ことごとくこれを見事な絵にしてしまいうる作品である」と述べて、今日の俳句の認識とほぼ同じで、異なるところがない。この文章からは八雲が俳句の本質を知り、並々ならぬ理解を示していることを物語っている。   それでは、八雲の俳句鑑賞の一例として、「小泉八雲 蝶の幻想」のなかの「蟬」を取り上げる。ハーンの愛弟子の一人で執筆資料の提供者、協力者として長年ハーンのために尽くした大谷正信の手により、編纂、訳註が付せられて、大正十 (一九二一)年、『小泉八雲・蟲の文学』と題した、瀟洒な小型の美本として北星堂から刊行された十篇の英文と、新たに加えた「蝶の幻想」は、『シンシナティ・コマーシャル』紙(一八七六年五月九日付)所載の原文を、そして「蚕」は『霊の日本』(一八九四年初版)を底本になされた。「蝶」をはじめ、後の「蟬」「蜻蛉」「蛍」などは『怪談』(明治三七(一九〇四)年)に収録されている「虫の研究」の一章である。なお、A~Fの文章は本稿の分析に必要な部分のみを抜粋している。  「蟬」  A 日本の文学では、陸運という名で知られている中国の著名な学者が、蟬の五徳という、次に記すような面白いことばを書き残している。  B これを、今から二千四百年前の昔に書かれた、アナクレオンのあの美しい蟬の讃歌と比較するとき、ギリシアの詩人と中国の賢人との間に、思想上の数々の一致点を発見して驚く。  C 一方、日本の詩人たちは、これとは反対に蟬の声よりも、夜鳴く虫の声をより賞美する傾向がある。もちろん、蟬を詠んだ詩歌は日本にも無数にある。しかしその鳴く声をほめたたえたものはきわめて少ない。もともと日本の蟬は、ギリシア人の知っているそれとは、非常に違っている。日本の蟬のなかにも、たしかに音楽的に鳴くものもいるにはいるが、大多数のものは驚くほど騒々しい。彼らの鳴き騒ぐ声は、あまりにうるさいため、夏の季節の大きな苦痛の一つに思われているくらいである。  D 蟬に関する日本の詩歌は、おおむね非常に短いものが多く、わたくしの集めたものも、十七音節の俳句でほとんど占められている。そしてその俳句も大部分は蟬の声を――というよりも、蟬の声が作者の心にもたらした感興を詠んだものが多い。  E 蟬を詠んだ日本の詩歌には、哲学的な作品はそう多くない。  F 八雲の一句鑑賞   やがて死ぬけしきは見えず蟬の声  芭蕉  この小さな句の中に秘められている思想は、虫の声の哀れさとともに、自然の寂寞のなかから訴えてくる夏の憂愁を、多少なりとも説明しているのではないかと、わたくしは思う。こうした幾百万という小さな生きものたちは、無意識のうちに東洋の古代の叡知を――諸行無常を説く永遠の経典を説き教えているのである。  そもそも、八雲に対して俳句の指南役を務めたのが島根時代の教え子で、俳人の大谷正信(繞石)であり、英語圏の読者に向けての紹介文であることを差し引いてみても、八雲らしい俳句観が披瀝されている。AとBに見られる中国文学、ギリシア文学、CとDにおいては和歌にも言及して、比較文学的な考察を試みていて、八雲の博識ぶりが充分に窺えるものである。特徴的なことは、俳句の世界に「哲学」や「思想」、あるいは「諸行無常」といった宗教を持ち出して説明しているところである。Fでは、「寂寞」「憂愁」などの言葉を用いて、日本人の情緒を明らかにしている点は日本人の鑑賞文にあまり見られないものである。情を排し、「こと」ではなく、「もの」を詠むのが俳句であるからである。   終わりに  従って、八雲の韻文、特に俳句に関する文章から浮かび上がってくるのは、いみじくも、アラン・ローゼン氏が「ラフカディオ・ハーンの科学的論説Ⅰ」(注2)のなかで、ハーンは「英語圏の読者に向けて外国の文学作品を発見し、翻訳し、紹介する役割を果たす者となる夢を常に持ち続けていた。また、ハーバート・スペンサーなどによる社会哲学や、神道や仏教などの宗教にも、ハーンは深い関心を抱いていた。しかし、人文学の分野に対して純粋に文学的な取り組みをしているときにおいてさえ、科学は脇に押しやられることはなかった。また逆に、科学的な分野における論説においては文学的な色合いを指摘することができる」と述べているように、科学的分析力と文学的感性との適度のバランスの上に立って、俳句を理解し、鑑賞していると言わなければならない。    注1 『現代に生きるラフカディオ・ハーン』2007・3、熊本出版文化会館  注2 (『ハーン曼荼羅』、2008・11、北星堂)

Published on 2014-07-14 03:14:11 GMT

古池の波紋    —命懸けの飛翔—                         五島高資   芭蕉ブームの再来   芭蕉没後三百年にあたる一九九四年前後は、ちょうど『奥の細道』自筆本 の発見も相俟って、芭蕉への社会的関心は一方ならぬものがあったけれども、ついにそれは単なるアニバーサリー的なブームに終わっってしまった。ところが、 それから十年を経て、再び芭蕉に注目が集まった。二〇〇六年には、『えんぴつで奥の細道』がベストセラーとなり、嵐山光三郎氏が評伝『悪党芭蕉』にて第五 八回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞するなど、この芭蕉ブーム再来は、俳句界の枠を越えて一般社会へと広がる新展開を見せることになった。  そ れにしても、今やインターネットで世界中とつながりグローバル化された現代日本において、芭蕉という江戸時代の一俳人になぜここまで私たちは魅了されるの であろうか。実は、その謎を解くためには、二〇〇四年一月から「俳句研究」に連載された長谷川櫂氏の「古池の彼方へ」という芭蕉俳句の本質を問い質す論考 に溯らなくてはならない。  日本人ならほぼ誰もが知っているけれども、その真意についてはよく分からなかった一行の詩歌がある。それが芭蕉の〈古 池や蛙飛びこむ水の音〉である。古来、この名句については、すでに解釈し尽くされたと誰もが思っていたし、確かにかつて正鵠を射た解釈がなかった訳ではな い。〈古池や〉の句について、一九九〇年刊行の麻生磯次・小高敏郎著『評釈名句辞典』には次のように記されている。  この句は単なる写生の句でもなく、叙景の句でもない。古池にひろごる閑寂の余響を、作者は、しみじみと心に味わおうとしたのである。古池は心の田地ともいうべきものである。  そ もそも、長谷川氏が『古池に蛙は飛びこんだか』という一冊を以てして、〈古池や〉の句は「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」という意味ではなく「蛙が水 に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」のであると喝破しなければ、俳句における詩的創造性の本質に気付かなかったであろう現代の俳人こそ情け ない。ついには、「芭蕉の〈古池や蛙飛びこむ水の音〉は本当に名句なのか」という毎日新聞社主催のシンポジウムが開かれる始末である。そして、そこでは、 古池に飛びこんだ蛙は何匹なのかなどといった低次元の議論が交わされるほど、現代俳句の世界は、芭蕉が極めた俳諧精神からほど遠いところにあるのである。   近代俳句の革新と退廃   そもそも「文学」という言葉が詩歌や小説などを包括する言語芸術を示す概念として用いられるようになったのは明治二〇年前後からと言われている。つまり、 当時、写実主義や自然主義などの西洋的な理念に根ざす文藝と相俟ってもたらされた「文学」という概念が次第に定着していった。従って、日本の「文学」は則 ち「近代文学」とほぼ同義であり、これまでの伝統的な日本の諸文藝は「文学」の下位概念となることによってその「近代化」を図ることになる。一方で、「文 学」は広義において「文書の形式に固定されたすべての言語的所産を包括」(竹内敏雄編『美学事典』)したが、やがて「狭義においてはこのうち特に美的品質 をそなえたものに適用され」(同上)るようになって、今日的な意義での「文学」の概念が形成されることになる。つまり、そこにおいて「文学」は言語芸術と して自らを保証する美的価値基準を必要とすることになる。 そこで、幕末において言語遊技と堕した月並俳諧や俗宗匠輩の権威主義を排して写実主義によ る美意識に価値基準を求めて、「俳諧」から「俳句」への改新を主導したのが正岡子規ということになる。しかし、この「写実」だけでは、詩型の短い俳句に深 い詩性をもたらすことは限界があり、子規もそのことはよく承知していた。そこで彼は俳句修学の至境について「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を 製出せざるべからず。空想に偏僻して写実に拘泥する者は固より其至る者に非るなり」と『俳諧大要』に結論したのである。  かくして、当初は、 蕉風俳諧の核心にして日本の伝統的美意識に深く関わる「さび」を等閑視していた子規だったが、やがて彼が唱導した「写実」も、次第に「非空非実」という観 想を経ることによってやはり伝統的俳諧が目指したのと同じところを見据えるようになったのだと思う。ここにおいて初めて子規の「写実」は真の「写生」へと 至るのだと思う。例えば、〈糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな〉では、上五の「客観」と中七の「主観」がついに結句の「仏」に象徴される「非我」あるいは「空 観」へと超克されることによって「写実」は「写生」の次元へと詩的昇華されている。しかし、掲句は子規の辞世であり、彼の死によってこの真の「写生」は後 世に充分伝えられなかったと考えられる。もちろん、子規の後を襲うのは高浜虚子だが、子規の臨終に際して虚子が詠んだ〈子規逝くや十七日の月明に〉という 句からしても、先師が一生をかけて辿り着いた「写生」の真意について虚子は能く諒解していなかったのではないかと怪しまれる。案の定、子規亡き後、俳壇を 主導した虚子は、「写生」にわざわざ「客観」を冠した「客観写生」という主客二分をより鮮明にした表現方法を俳句創作の核心に据えることによって近代文学 の後塵を拝しながら、一方では俳諧の一特性に過ぎない季題諷詠を偏重して恣意的に俳句を季感文藝と定義した。しかし、西洋的近代文学の停滞はその主客二分 的文学観に依拠して「客観写生」を旨とする近代俳句の逼塞にも深く関わっている。今日における蕉風俳諧への回帰が本格的なものとするならば、その意味する ところは、明治以降、主客二分的文学観によって停滞して久しい近代俳句の在り方が根底から問われているということなのではないだろうか。そろそろ文学を離 れて文学を、俳句を離れて俳句を見直す秋なのだと思う。   古池の波紋  さて、〈古池や〉の句に戻ろう。今日におけ る蕉風俳諧への回帰志向は、二〇〇四年に長谷川櫂氏がその著書『俳句的生活』の中で展開した、〈古池や〉の句についての新しい解釈に端を発する。要する に、「どこからともなく聞こえてくる蛙が飛び込む水の音を聞いているうちに心の中に古池の面影が浮かび上がった」のであり、「切れ字の「や」は現実の世界 で起きている「蛙飛びこむ水の音」とは切り離された心の中に現実ならざる古池を浮かび上がらせる働きをして」おり、「心の中の古池こそが閑寂境」であると 長谷川氏は主張したのである。 そもそも、〈古池や〉の句の成立を温ねれば、貞享三年閏三月の『蛙合』にその初出を見る。その様子については各務支考 の『葛の松原』に詳しく、芭蕉は最初「蛙飛びこむ水の音」の七五を得た後、榎本其角が提案した「山吹や」の上五を採らず、結局、「古池や」を上五に定めた と記されている。さらに支考は、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉と〈山吹や蛙飛びこむ水の音〉の二案を判じて「山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、 古池といふ五文字は質素にして実なり。実は古今の貫道なればならし」と説いている。もっとも、ここでの「実」を現実として取れば、支考の解釈と、「古池」 を現実ならざるものとして措定する長谷川説と相反するように思われるが、心主詞従の説を敷衍して「華」を外形に、「実」を内実に求めるならば両者は相通じ ていることが分かる。 ところが、前述したような心主詞従の説に拠る支考の解釈に対して、潁原退蔵博士は次のように異を唱えている。   それはそれで勿論宜い。しかし、華実を単に山吹と古池との場合にして考へて見ると、もつと違つた解釈が試みられるやうである。即ち一を写象的な叙景と見、 一を象徴的な観想と見るのである。さうしてこの古池の句の場合、その光景が何等かの象徴として捉へられて居ることによつて、初めて立派な俳句となつて居 る。実はさういふ解釈を下したいのである。『俳句に於ける写生』  「一句の表面に現れたるだけの意義」に終始 する写実偏重を排するという意味においては長谷川説と相通じるが、潁原説では一句ねも全体が写実的でありながら、そこに示現された「光景」に象徴的次元が 重なって立ち現れるというモノフォニーから派生するポリフォニーと言うべき詩境に俳句の真価を求めている。従って、潁原説では、あくまでも、まず古池に蛙 が飛び込んで水の音が聞こえるという状況を写実的な叙景として想定する。また、その一方で、古池の静を擾す音が却って静を感じさせると共に、その音が消え 去って再び静に帰する古池に至る心と、そして、けだるさの中にも明るい静寂さが感じられるという晩春のアンビバレントな季節感とが共鳴すること、つまり、 自己と天然とが相互滲潤(造化随順)する志向性に風雅の淵源を求め、茲に至って初めて「さび」が体得されるという詩法の確立を以て蕉風開眼と見なし、それ を能く体現する一句として潁原博士は〈古池や〉の句を評釈しているのである。ところで、『名句評釈』における潁原博士の句評は実に簡明である。冒頭から 「古来やかましい句である」と起筆し、支考、越人、其角などの諸説、あるいは『古池真伝』などに触れながらも、「要するにどこでもよい、青く水の淀んだ古 池がある。~中略~徒らに千言万語を費す必要はないのである。箇中消息は自ら領会 するものがあるだらう。」と結論している。  ここで確認し たいのは、俳句が優れた「さび」の文芸である為には、まず優れた「写実」が存することを不可欠の前提とすると同時に結局それが象徴詩たる宿命を負うべきも のであるという潁原博士の主張である。ところで、〈古池や〉の句においては、対象の観照によって得られた詩興が、造化随順、枯淡静寂、さらにはその先に仄 めく「ものの生命」あるいは「ものの見えたる光」へと至ることによって既存の美意識や固定観念を離れ、心奥なる詩魂へと質的変化を遂げんとする志向そのも のが「心の色」なのであり、それは自ずから一句の句姿に「句の色」として醸し出されるのである。〈古池や〉の句について「蒼く湛へた静かな池の面に、突然 大きな波紋を描いて起る水音、静と動の交錯がそこには象徴されて居る」と潁原博士が喝破した所以である。   命懸けの飛躍   蛇足ながら私もまた、〈古池や〉の句を一読すれば、やはり、古池に蛙が飛び込んで水音が響いたという「実景」がまず脳裡に浮かぶ。それはあくまでも言語の 記号的情報による散文的解釈である。次には、もっと具体的に、幼い頃よく遊んだ近所の弁天池の「光景」などが想起されたりする。そして、我に返って〈古池 や〉の句を俳句として理性的に読み直せば、作者とを隔てる時空の壁を「や」の切字が鑿開することによって様々な「情景」が想像される。ところが、ここに来 て仄見えてくるのは、蛙ではなく芭蕉その人の姿なのである。例えば、それは、主君の死に士分を捨てて漂泊する芭蕉であったり、あるいは、貞門の旧染に泥む 京師を脱して東下する芭蕉といった具合である。さらには、言語遊技に停滞する談林の陋巷を離れて深川の池州番小屋に潜居する芭蕉、そして、ついには八百屋 お七の大火で海に身を投じて辛くも急火を遁れる芭蕉が思い浮かばれるのである。つまり、そのいずれにも覗えるのは、「死」に切迫するような艱難に遭遇して も「命懸けの飛躍」によって何度もよみがえる芭蕉の強かな魂胆なのである。因みに、この論攷を書くにあたり、実際にアマガエルを自宅で飼育して観察した が、アマガエルは身に危険が迫った時以外に自ら音を立てて水に入ることは一度もなかった。  もっとも、「命懸けの飛躍」とは、芭蕉の境遇やアマガ エルの生態における謂のみならず、むしろ、俳句の詩的創造における大事なのだと思う。「切れ」の本質は、常識やこれまでの自分を捨てて言葉と言葉との新し い関係性において詩的創造性を確立するということである。つまり、既存の観念や自己から超脱して初めて新しい表現世界やほんとうの自己が見えてくるのだと 思う。芭蕉は通俗卑近の内にも新しい言葉の関係性を構成するという「切れ」の詩法によって俳諧に新しい美意識や芸術性をもたらしたのである。しかし、その 一方で、「切れ」は言語の記号性や伝統的な美意識や古い固定観念などによって保証されてきた他者との交流にも間断を生ぜしめる危険を孕む諸刃の剣でもあっ た。従って、芭蕉は「平生則チ辞世なり」と唱えて、句作に臨んでは常に「一句懸命」の真剣勝負だった のだ思う。畢竟、〈古池や〉の句では、一句というモノフォニーの中から、「切れ」による「静」「動」そして再び「静」へと回帰するという通時性と、前述し たような写実的次元と象徴的次元との相互浸潤による共時性とが織り成すポリフォニーがあふれ出すという極めて高度な詩的創造性が認められる。ここにこそ蕉 風俳諧の核心があるのではないだろうか。そして、それは不断に旧染を打破せんとする「軽み」の本質へとつながるのである。たとえ、その道が「行く人なしに 秋の暮」へと向かったとしてもである。

Published on 2014-07-11 19:25:19 GMT

金子兜太小論    —戦後俳句の現象学的展開—                         五島高資  昭和三十一年、金子兜太は俳句創作理念としていわゆる「造型」の詩法を提唱し、実作面でも現代俳句協会賞を受賞している。弱冠三十七歳、日本銀行神戸支店在任中のことである。翌三十二年には、朝日新聞阪神版俳句欄の選者に就任する。まさに「社会性俳句」あるいは「前衛俳句」の旗手として他の追随を許さない旺盛なる創作活動が展開された時期である。  昭和三十三年、兜太は日本銀行長崎支店へ転勤となる。ちょうどこの年、長崎にて〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉の句が詠まれることになる。実はこのあたりに兜太の作風における一つの大きな転換点があったと私は見ている。  「四十歳の声を聞く前後から体調が変化しやすくなり、体力の低下を感じはじめた。(中略)作品もだんだん脂気が抜けて、漂白されてゆくように思えた。それがはじめは不安だった」(『蜿蜿』後記)と、兜太は独白している。しかし、この肉体の衰えを自然の摂理と諒解し、むしろ、逸る精神をこそ肉体に順応させることによって兜太は「自然(じねん)」という生き方を見据えるようになる。ここで〈湾曲し〉の句に立ち帰れば、まだ被爆の傷痕の残る長崎という都市の悲痛を火傷の疼痛という体感的共有感覚を以て自然に受け止めているのである。逸る心を抑えて自らのペースを保ちながら忍耐強く駆け抜けるマラソンランナーの姿に兜太は自らの在り方を重ね合わせていたのかもしれない。それは、数年前に詠まれた〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉などには見られない詩境の大きな展開と言って良いだろう。  昭和三十四年、兜太は長崎で四十歳を迎えることになる。この頃、兜太は、野母半島、雲仙、唐津、五島、阿蘇、平戸、天草など、土俗的風土が色濃く残る九州の土地土地を巡り歩いている。実はこの異郷遊歴において兜太が確認したのは、自らの詩境を裏打ちすべき体感的共有感覚が肉体と時空を貫いて「風土」に溯るということだったのではないかと思うのである。  昭和三十五年、兜太は東京へ戻ることになるが、そこにおける「風土」の崩壊に兜太は改めて愕然とする。まさにわずかに土が残る自宅の〈果樹園がシャツ一枚の俺の孤島〉と感じられたのである。そして、ますます「風土」への憧憬は強まっていくことになる。   白い影はるばる田をゆく消えぬために  兜太   朝はじまる海へ突込む鴎の死      兜太   銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく   兜太  昭和三十六年『俳句』に掲載された「造型俳句六章」における「造型」の方法であった。そのなかで、兜太は、花鳥諷詠や山口誓子の写生構成を諷詠的傾向、中村草田男らの人間探求を象徴的傾向、富沢赤黄男らに見られる現実を主体の内に求める傾向を主体的傾向と分類している。そして、諷詠的傾向ではあくまで対象物を自らの外に置くことによりその在り様を描写するという主客二元論的な観念に捕らわれ易く、また象徴的傾向と主体的傾向では主体へ執着することにより芸術的真理からかえって遠ざかってしまう傾向を指摘している。つまり、それらはみな、私があって、その周りに世界もまた無条件に存在しているという安易な主客二元論に陥っているというのである。  昭和三十七年、現代俳句協会分裂の翌年、金子兜太は「海程」を創刊した。戦後十数年経って早くも俳壇において守旧ムードや伝統回帰が漂いはじめていたことに対する危機感が「海程」といういわゆる前衛派の砦を築かせる原動力となったらしい。  兜太は俳句の本質を五七調の最短定型と捉え、当時、主流を占めていた花鳥諷詠において俳句に不可欠と考えられてきた季語や厳密な五七五三句体に捕われない本来の俳句の在り方を本格的に追求することになる。そのことは、花鳥諷詠がややもすると瑣末写生に陥っていたこれまでの俳句の在り方を徹底的に問いただし、且つ新しい現代俳句の開拓に着手するという戦後俳句における壮大な実験でもあった。もちろん、それ以前に荻原井泉水らによる新傾向俳句の音律論的理論付けが行われたりもしたが、俳句と自我の関わりという根本的な問題に立ちかえっての俳句革新は、金子兜太の出現を待たなくてはならなかった。  そこで造型の方法においては、主客の間に「創る自分」と兜太が呼ぶ新しい自我が導入されることにより、主客という二項対立的観念を超えて芸術的真理としての「物自体」に迫ろうと試みる。そのためには外在する物象について一旦それらを括弧の内に入れて判断を保留するという現象学的エポケーが必要であり、そこから新しい物象世界が再定立されなくてはならない。しかし、エポケーされた「物自体」としての世界は「原初的世界」であるが故に、そこから再構築される世界はややもすると独り善がりになりがちである。   粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に  兜太  この句が作られた当時、小西甚一は、「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。  さて原子氏は〈粉屋が哭く〉の句における「粉屋が哭く」「山を駈けおりる」という二つの言表を他我の現象として捉えたが、さらにその他我もまた自我と同じく、自我と比類的に自己の原初的世界を持ち、却って自我をそこにあらしめているとも言える。つまり個別的自我とは区別されるこうした自我と他我の相互交流の場において認められる自我こそが間主体的自我なのである。このように間主体的還元においては、自我と他我との相互作用により現実性が獲得されるものであるが故に、必然的に社会・文化・歴史などに深く関ってくることになる。かつて社会性俳句と称された金子兜太らの一群の俳句もまた何か特別な俳句というわけではなく、俳句における自我の探求という欲望から必然的に産み出されたものということができる。     金子兜太による間主体的自我の導入という新たな方法によって、近代俳句を束縛していた「仮の主体」から脱して現実を直視できるようになったと言ってよいだろう。それはまさに俳句における現象学的展開であた。しかし、この間主体性はまだ相互性の立場におけるものであって総体性の立場におけるものではない。そして、それは完全な統一性を獲得したわけではなく、従って万人に対して共通の世界を構成しうるとは言えない。この点が小西氏による「独り合点」という批判に繋がってくるのだと思う。そこで間主体性における自我と他我という二項対立的観念をも超越し、自我と他我が純粋に相互滲潤するという超越論的還元によって間主体的自我は超越論的主体にまで高められなければならない。この超越論的還元によってこそ言葉は観念という「死(タナトス)の世界」から「生(エロス)の世界」へと生まれ変わるのである。  のちに兜太は俳諧を「情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざま」であるとし、自己の内に閉じこもる「心(ひとりごころ)」に対する他者に開かれた「ふたりごごろ」に注目するようになる。このことはまさに個別的自我や間主体的自我から超越論的自我への志向を示すものである。フッサールの超越論的還元においては、その総体性を保証するものを類比的統覚という漠然とした概念で捉えているのに対して、兜太はその超越論的還元の保証を「風土は肉体である」という体感的共有感覚に求めている。   人体冷えて東北白い花盛り        兜太  「わたし」はエポケーによって「人体」という「物自体」と同列に置かれるている。また東北地方を連想させるリンゴの花や辛夷の花などの具体的な言葉はなく、むしろそれらの要素が抽出されたものとして「白い花」が提示されている。「物自体」として冷える「わたし」=「人体」と「白い花」との絶妙な共鳴の根底にはまさにそれを保証する東北の風土が横たわっているのである。この共有感覚が「ふたりごころ」として私のこころに響いてくる。その時、俳句はエクリチュールを超えて、タナトスからエロスへの還元として詩的昇華を獲得するのである。            初出 : 『現代俳句』1997年9月号(一部改訂)

Published on 2014-07-07 21:00:59 GMT

『去来抄』の先師評      ―去来の嘆息―                            永田満徳  『去来抄』が去来の嘆息によって閉じられているのは実に興味深い。新風を興そうとの素堂の誘いに対して、「世の波、老いの波日々打ち重なり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ」と言って、多忙と老いの弱りを理由に辞退している。辞退理由の真偽は別にしても、素堂のすすめに応じられないみずからのこの態度に、「いと本意なき事なり」と述べていることはよほどのことであったろう。この言葉を最後に筆を置いた去来の心境はどのようなものであったか。想像するにあまりある。  芭蕉は俳諧思想に関するものを一つとて残すことがなかった。芭蕉自身、蕉風なるものでさえ「五、六年たてば変化するもの」と考えていた。現に蕉風の変化という観点からみれば、門人たちの手からなる俳論書は少なからぬ数にのぼるということは、蕉風がそれぞれの門人たちに受け継がれたというよりも、多様化していったことを示している。この蕉風の多様化は拡散していく危険を伴っていたといっていい。従って、『去来抄』の執筆の動機については、門人たちが師風から離れてゆくのを危ぶみ、師の遺風を継承することにあったとする説が一般的である。  『去来抄』は向井去来の著した俳論書で、安永四(一七七五)年に刊行された。芭蕉の言動をかなり伝えた功績は大きく、芭蕉俳諧を全体的に理解するのに好都合な書である。内容は「先師評」「同門評」「故実」「修行」の四部に分かれていて、特に注目すべきは先師評である。先師評には「外人の評ありといへども、先師の一言をまじる物はここに記す」という但し書きがある。芭蕉の自句や門人の句に加えた評語を中心にして、門人間の論議であっても、芭蕉の言葉がまじるものは収めているのである。そこで、先師評をもとに、『去来抄』について考察すべき挿話がいくつかあるので、その思うところを論じてみたい。  例えば、「下京や雪つむ上の夜の雨」という凡兆の有名な句は、当初上五がなく、門人たちがいろいろと置いてみたが、結局芭蕉がこの五字に決定したという。この句は、上五と中七の「取合」によって詩的リアリティが生まれている。芭蕉自身、「ほ句は、物を合すれば出体せり」(「去来抄」)と言っていることからも、この問題はないがしろにできない。しかしそれ以上に大切なことは、芭蕉がこの上五以外になく、「もしまさる物あらば、われふたたび俳諧をいふべからず」とまで言い切っていることである。俳諧はわずか十七音の言語表現であるため、一字一句を効果的に配合して初めて成り立つ文芸である。去来は「このほかにはあるまじとは、いかでか知りはべらん」と述べて、この一字一句の配合に自信を持って言える芭蕉に師の言語陶冶の一つの達成を見ているのである。特に、其角の「此木戸や錠のさされて冬の月」の上五に関する一挿話もそうであるが、上五の「柴戸」か「此木戸」かの評価の問題で、芭蕉は「此木戸」の語がいいとして、「かかる秀句は一句も大切であれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし」と命じたという。一句のためなら、選句集『猿蓑』の〈出板〉を差し止めてもいいというのは、経済的損失を無視してでも選句集を厳正にしたいという気持ちの表れである。「此木戸や」は「下京や」の挿話と同じく、「取合」の重要性もさることながら、一字一句もおろそかにしない芭蕉の厳正な姿勢がひしひしと伝わってくる。芭蕉の厳しさ、それは俳諧の厳しさと言い換えてもいい。  ところで、芭蕉の俳諧思想の中核をなすものが当時の御用学である朱子学であることは周知の事実である。芭蕉俳諧と朱子学との密接な関係について、野々村勝英氏は、「岩端やここにもひとり月の客」の条にも見られる芭蕉の「ことに風狂に関するかぎり、仏教的狂は姿を消し、直接的には朱子学的な発想に林註を媒介とする壮士の思想が加わって成立したもの」(「俳諧と思想史」『日本古典文学鑑賞 第三三巻 俳句・俳論』角川書店・昭和五二・一〇)とも述べられている。この〈風狂〉は一歩たりとも滞ることなく、新風を求め続けた芭蕉俳諧の原動力となったものである。父はもちろんのこと、兄や弟も朱子学者で知られ、そういう知的環境のなかで育った身であるならば、去来自身もまた生まれながらにして朱子学思想の素養の持ち主であったと考えられる。従って、この句に対する芭蕉の厳しい態度は同じ思想の持ち主である去来の心情に強く訴えかけてくるものであったろう。  芭蕉の「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」「海士の家は小海老にまじるいとどかな」の一条では、凡兆との比較論争で、「病雁を小海老などと同じごとく論じけり」と言って笑ったという挿話がある。この芭蕉の〈笑ひ〉の真意はつかめぬものの、少なくとも去来はこの芭蕉の〈笑ひ〉を後ろ楯にして自己の評価の正しさを示したかったのである。「病雁」の句を評価する去来の言い分としては、この句が「格調高く趣かすか」な心境句で、高邁な心を持っていなければ作れないものだということだろう。しかしここでむしろ注意すべきことは、句の評価の視点を精神性に置き、芭蕉の偉大さを強調しようとしていることである。去来の思想的資質がおのずから滲み出ているのである。「行く春を近江の人と惜しみけり」の条でも、この句の評を芭蕉に求められて、芭蕉の本情論に沿う答えをしたことによって、「汝は去来、ともに風雅を語るべきものなり」と褒められている。もちろん本情把握論は当時の朱子学的世界観にもとづくものであるにしても、対象に観入し、宇宙の生命と感合することによって、自己の本性を明かにし、宇宙の生命を捉えるという儒家の「格物究理」の説を誰よりもわきまえていることを芭蕉に認められたと思ったことだろう。ここに朱子学という精神哲学を共有するものの自負として、芭蕉の句の真の理解者は自分であり、自分こそ芭蕉の直弟子であることを言外に表明しているのである。  この去来の態度は我田引水の感はまぬがれぬが、そういう自負があるゆえに、丈艸の「うづくまる薬罐の下の寒さかな」に対する芭蕉の評にまつわる最期の教訓の真意を伝えることができたのである。師の病床に侍る者たちの緊迫した状況のなかで、丈艸の句の情景一致の深さに対して、「かかるときは、かかる情こそ動かめ」と述べて感動を隠し切れないでいる。ここでいう〈情〉とは誠、真情の意と解するならば、去来は芭蕉が生涯求め続けてきた儒学思想の誠をしっかと悟得しているのである。いわゆる不易流行とは対立した概念ではなく、誠の上に立脚し、誠を追求するところに生じるものである。この誠への不断の実践こそが芭蕉俳諧の神髄である。このように、去来は芭蕉の直弟子の意識のなかで俳諧の厳しさを述べることが『去来抄』執筆の目的であった。そして、この芭蕉俳諧の厳しさを伝える行為こそは、新風を興すことが『去来抄』執筆でしかなしえないと悟った者の取り得る唯一の方法であったといえる。  とはいっても、去来にとって〈本意なき事〉の〈本意〉とは、やはり新風を実作で示すことだったにちがいない。それは、芭蕉の後ろ盾によって二、三の新風を興せば「天下の俳人を驚かさん」という自負があったことからも類推できる。しかしそれ以上に芭蕉の身近にいて、なんら俳論書を残さず、実作で新風を絶えず作り出していった芭蕉の姿を目の当たりにしてきたからにほかならない。実作こそ俳諧の本道だとの思いである。従って、「いと本意なき事なり」という嘆息は、俳諧への情熱を喪失したものの嘆きでは決してなく、実作そのものから遠ざからざるを得ないものの嘆きである。『去来抄』執筆だけでは解消できない去来の無念さが否応なく伝わってくるのである。

Published on 2014-07-06 22:17:04 GMT

近代俳句の終焉                         五島高資   緒言  数年前に刊行された「文藝春秋」臨時増刊号の「美しい日本語・言葉の力を身につける」という特集では、一一六篇の書き下ろしが掲載されていたが、何とその大半に詩や短歌や俳句など(以下、詩歌と呼ぶ)の再評価が述べられていた。因みに、執筆のほとんどは、散文表現を専らとする小説家や評論家などであった。このことは裏を返せば、近代合理主義に根ざした近代文学の逼塞と、それを打開するための「言葉の力」が日本文学の原点である詩歌に秘められているということへの再認識を示すものと言えるだろう。  しかし、そもそも詩歌もまた近代文学に包摂されるものと考えるならば、いま日本文学に求められているのは、現在の詩歌そのものではなく、あくまでもその文学性におけるラジカルな「言葉の力」であるということを心得ていなければならない。前述した「文藝春秋」の特集において引き合いに出されていた詩歌の大半が江戸時代以前のものであることもその証左と言える。このことは、江戸時代以前の日本文学が記紀歌謡へと溯る日本語に特異的な「言葉の音楽性」というものを保持していたからなのだと思う。もちろん、江戸時代以前の文学もまたしばしば形式主義に陥るのだが、その都度、感情と理性が調和した「まこと(真言)」の精神へと立ち帰ることによって旧染が打破され新たな文学の思潮を形成していったことは言うまでもない。そうした言葉と心が一体化する原初的な精神性の復活に大きく寄与しているのが、まさに「言葉の音楽性」なのである。  近代文学が頽廃したのは、現代文化における情報媒体の主流が活字から映像や音響によるマルチメディアへと変遷したからなのではなく、近代文学自体が「言葉の音楽性」を見失ったからなのだと思う。それは小説などの散文に限らず、現在の詩歌においても同様のことが言えるだろう。例えば、俳句界においては、高浜虚子が恣意的に俳句の必要条件とした「花鳥諷詠」という思想と「有季定型」という規則によって、近代俳句は「言葉の音楽性」を見失い、現在もなお、形式主義に甘んじる俳句が増産され続けている。逆に、そうした「言葉の音楽性」を喪失した俳句を「近代俳句」と整理することによって、真の現代俳句というものの在り方が判然としてくるのではないだろうか。   衰退する「言葉の力」  「言葉の音楽性」に根ざした詩歌における韻律は、固定観念に囚われた「言葉」と「心」を解放すると共に、それによって生々しい「物自体」や「事自体」を顕現化する作用を持つ。そうして現れる原初的世界における「言葉」と「物自体」や「事自体」との新しい関係性の再構築こそが詩的創造なのだと思う。もちろん、そうした詩的創造が優れたものであるためには、そのプライオリティーと、読者に大きな感動を与えることの両方を満さなければならないことは言うまでもない。換言するならば、古人が求めた所を求めると同時に、創作による新しい関係性が直感的な集合無意識に根ざしていなければならないと言えるだろう。そして、この通時的かつ共時的な要素の統合にも「言葉の音楽性」に裏打ちされた韻律が深く関わっていることも付け加えたい。  因みに、西洋における原初の言葉は、古代ギリシアにおいて音楽に規定された韻文である「ムシケー」という存在として想定され、その「ムシケー」から「散文」と「音楽」とが分離独立し、さらに「散文」から、言語的に規定された韻文としての「詩」が発生したことが、T・G・ゲオルギアーデスによってすでに解明されている。もっとも、ここで言う「言語的」とは、論理的あるいは理性的という意味合いで用いられており、つまり、西洋における「詩」と、その濫觴から一貫して「言葉の音楽性」に深く根ざした日本の詩歌は根本的に異質なものと言わざるをえない。むしろ、日本の詩歌は「ムシケー」そのものと言って良いかもしれない。しかし、現在、「有季定型」を盲信する作風が主流を占める現在の俳句は、そうした「ムシケー」的要素や「言葉の音楽性」によって獲得されるべき「言葉の力」を失っている。もちろん、俳句に限らず「言葉の力」を失った今の日本文学は、真の「現代文学」と言うことはできない。むしろ、それは「現代」という仮面をつけた「近代文学」の死に体に過ぎないのである。   近代文学の終焉  正岡子規を含めて、それ以前にもことさら「有季定型」が俳句の必要条件とされることはなかった。つまり、今日において主流をなす近代俳句は、高濱虚子による「有季定型」という俳句様式の自己限定に収斂される。それではなぜ虚子がそれ以前にことさら言挙げされなかったことに執着してしかも恣意的に俳句の必要条件を唱導したのか。虚子は『俳句への道』のなかで次のように述べている。「俳句でない他の文藝に携はつて居るものが『花鳥諷詠』を攻撃するなれば聞こえるが、俳句を作つてゐる者が『花鳥諷詠』を攻撃するといふことはをかしい。俳句は季題が生命である」と。この虚子の主張に鑑みれば、「有季定型」の真意は、近代俳句が他の韻文文学あるいは散文文学を他者としてその独立性を保持するための自己限定にあったのではないかと思われる。そうであれば近代俳句の存在は近代文学全般における相対的地位に依拠していると言うことになる。  さて、アメリカの社会学者であるD・リースマンは、その著書『孤独な群衆』で、社会における「主体」という視座から「伝統指向型」「内部指向型」「他人指向型」という三つの人間類型を提唱したが、これを援用しつつ柄谷行人は「近代文学の終り」(『早稲田文学』)で次のように述べている。  日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには、他者に承認されたいという欲望しかありません」と述べ、一九八〇年代から顕著になったのは、「主体」や「意味」を嘲笑し、形式的な言語的戯れに耽ることだと指摘した。そして『それは、グローバルな資本主義が、旧来の伝統指向と内部指向を根こそぎ一掃し、グローバルに「他人指向」をもたらしていることを意味するにすぎません。近代と近代文学は、このようにして終わったのです。         そこで、俳句に立ち帰ると、実は、近代の散文文学よりもずっと以前から近代俳句は「有季定型」という自己限定によって他の詩歌を他者として意識してきたことに気付くのである。なるほど虚子が恣意的に定義した「有季定型」はやがてグローバル・スタンダードとなり、「主体」や「意味」を嘲笑する形式的な言語的戯れに耽る些末写生句の増産をもたらすことになったのである。つまり、極端な言い方をすれば、虚子による「有季定型」は、柄谷が指摘した「他者に承認されたいという欲望」に裏打ちされたものだったのである。このことは、すでに昭和二十年代に発表された頴原退蔵による次の箴言からも推測される。  俳諧は本来決して季感文藝ではない。一體俳諧が花鳥諷詠であり、季感文藝であるなどと説くのは、俳諧がいかにして発生したか、芭蕉がいかに俳諧の本質を解釋して居たか、そうしたことに全く無知な為ではないかと思うのであります。『芭蕉俳諧と近代藝術』             つまり、頴原は、俳句の文学性を俳諧性に見据えており、季題や季語に拘泥する近代俳句の在り方は、芭蕉が極めた「軽み」における融通無碍なる詩境とは相容れないことに苦言を呈しているのである。「軽み」とは旧染を打破し新しみを求めることであり、そのためにはまず固定観念からいったん離れなくてはならない。しかし、そもそも言葉自体が固定観念による意味づけで成立している訳だから、言葉で構成される俳句にあっては、「言葉で以て言葉を超える」ところにその詩的創造性が存すると言って良い。

Published on 2014-07-05 14:50:18 GMT

加藤楸邨句集『望岳』論      -楸邨の〈目〉-                              永田満徳  『望岳』は加藤楸邨の遺句集で、平成八年七月三日に発刊された。個の内面の掘り下げという人間追求を第一義とし、停滞を嫌い、七十歳になっても句材を求めて海外を旅するほどの俳句一途の俳人であった楸邨の最後の句集ということで、集大成の意味をもつものではないかとひそかに期待しつつ、全句四四五句を精読した。果たしてその期待にたがわない句集であった。  この『望岳』が特に晩年近く楸邨と親しくしていた大岡信によって組まれたことは適任であったし、句集にとって幸運であったと言わなければならない。というのは、大岡が朝日新聞に発表した「加藤楸邨を悼む」という文章から、楸邨の最も良き理解者は他でもなくまさしく大岡自身であったことが否応なく伝わってくるからである。大岡はそこで、加藤楸邨が天性の俳人ではなかったが、武骨、不器用な作者としてそのままみごとに全面開花し、円熟した俳人であったと述べている。この文章が、故人に対して実に愛情と敬意のこもった追悼文であるのはむろんのことだが、短い文章ながら数多くの楸邨論の中でも際立つものである。しかも、『望岳』の評としても立派に通用するもので、新たな評を付け加える必要のないほどである。ただ、私なりに『望岳』の印象として特徴的なことに触れてみたい。 まず、そこには〈目〉に関する語彙が数多く見受けられ、楸邨俳句を理解する上での一つのキーワード的な役割を果たすのではないかと思われる。   草にたふれし石像の目を蛾がかくす   蟇あるく動かざる目をたたく雨  楸邨の〈目〉への注意、ありてい言えば嗜好を如実に示しているのがこの両句である。   鳴かずゐる笹鳴の目を感じをり   出目金の破璃越しの目と睨みあふ   埋み火の底に蛇笏の目がありき   極月の征く友の大きな目がありき  四句とも他者の〈目〉を描いているが、一・二番の句は動物にさえ人格を感じる感覚の鋭さが感じられ、三・四番の句は対象が人間であれば〈父の目を以て嫁ぐ子を末枯に〉〈闇冴えて先生の目が前後左右〉という以前の句と同様に、〈目〉でその人自身を象徴する奥行の深い表現となっている。    母、我を孕りし時、山梨県猿橋を越えしといふ、一句   目ひらけば母胎はみどり雪解谿   母胎にて見しは九月の甲斐駒か   〈母胎〉という語のある句を拾い出してみると、いずれも〈目〉〈見〉など視覚に関する言葉である。この句集から「 見る」 という動詞を見つけ出すのがそれほど難しくないのは、視覚的な体験が原初的なものであったからに他ならない。ここに「 人間探求派」 に加えられながら、彼らと違った独特の地歩を築いていった秘密がある。  この原初的な視覚体験が楸邨の俳句観と不可分の関係にある。「真実感合」という俳句理論で大切なことは、「見て見て見抜いて客観写生の限界から飛躍する」 表現を希求したことにある。この〈見て見て見抜く〉力の根源こそが原初的な視覚体験であり、視覚的な言葉へのこだわりである。楸邨自身、芭蕉の「見えたる光いまだ心に消えざるうちにいひとむベし」の〈見えたる光〉を捉えるものは、知的なものでは割り切れない根源的な本能的な、一種のデモンだと述べていることと関連していよう。視覚言語の偏用は生得的なものだったのである。  ところで、『望岳』が昭和六十一年、つまり知世子夫人歿年から楸邨歿年までの句であることの意味は大きい。妻に対する愛情が一貫して深く、妻の俳句的才能を伸ばし、同好の士のような間柄であった楸邨にとっての知世子夫人の死は、この句集の一つの主題を成しているとさえ言えよう。   打ちもらしたるごきぶりや遺影が笑む   忘れ霜つねに言ひたき遺影のロ   かぎろひて知世子圓空を撫でてをり  一人身になった楸邨の〈目〉が知世子夫人だけでなく自分自身に向けられてくるとき、「人聞探求派」の句だけに読んでいて心が痛む。   風鈴とたそがれてゐしひとりかな   餅を噛むこのときまつたくひとりなり  「ひとり」「ひとつ」などの〈一〉という数字に類縁の語が頻出するのも特色である。これらは孤独の相を帯びていて、最後まで自分を詠むことをやめなかった一俳人の老いの姿を余すところなく描いている。老いた永井荷風を知ることはできないが、老いた加藤楸邨を知ることはできる。そこに小説家と俳人の違いがあるとしても。  楸邨の写真を見ると、「目」は決して大きくなく、むしろ細目に近い。しかし、この目こそが多くの秀作を残し、大岡をして「楸邨はやはりあっぱれ天下第一等の俳人だった」と言わしめているのだと思いたい。

Published on 2014-07-04 21:17:45 GMT

『去来抄』の先師評       ―去来の嘆息―                                                 永田満徳  『去来抄』が去来の嘆息によって閉じられているのは実に興味深い。新風を興そうとの素堂の誘いに対して、「世の波、老いの波日々打ち重なり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ」と言って、多忙と老いの弱りを理由に辞退している。辞退理由の真偽は別にしても、素堂のすすめに応じられないみずからのこの態度に、「いと本意なき事なり」と述べていることはよほどのことであったろう。この言葉を最後に筆を置いた去来の心境はどのようなものであったか。想像するにあまりある。  芭蕉は俳諧思想に関するものを一つとて残すことがなかった。芭蕉自身、蕉風なるものでさえ「五、六年たてば変化するもの」と考えていた。現に蕉風の変化という観点からみれば、門人たちの手からなる俳論書は少なからぬ数にのぼるということは、蕉風がそれぞれの門人たちに受け継がれたというよりも、多様化していったことを示している。この蕉風の多様化は拡散していく危険を伴っていたといっていい。従って、『去来抄』の執筆の動機については、門人たちが師風から離れてゆくのを危ぶみ、師の遺風を継承することにあったとする説が一般的である。  『去来抄』は向井去来の著した俳論書で、安永四(一七七五)年に刊行された。芭蕉の言動をかなり伝えた功績は大きく、芭蕉俳諧を全体的に理解するのに好都合な書である。内容は「先師評」「同門評」「故実」「修行」の四部に分かれていて、特に注目すべきは先師評である。先師評には「外人の評ありといへども、先師の一言をまじる物はここに記す」という但し書きがある。芭蕉の自句や門人の句に加えた評語を中心にして、門人間の論議であっても、芭蕉の言葉がまじるものは収めているのである。そこで、先師評をもとに、『去来抄』について考察すべき挿話がいくつかあるので、その思うところを論じてみたい。  例えば、「下京や雪つむ上の夜の雨」という凡兆の有名な句は、当初上五がなく、門人たちがいろいろと置いてみたが、結局芭蕉がこの五字に決定したという。この句は、上五と中七の「取合」によって詩的リアリティが生まれている。芭蕉自身、「ほ句は、物を合すれば出体せり」(「去来抄」)と言っていることからも、この問題はないがしろにできない。しかしそれ以上に大切なことは、芭蕉がこの上五以外になく、「もしまさる物あらば、われふたたび俳諧をいふべからず」とまで言い切っていることである。俳諧はわずか十七音の言語表現であるため、一字一句を効果的に配合して初めて成り立つ文芸である。去来は「このほかにはあるまじとは、いかでか知りはべらん」と述べて、この一字一句の配合に自信を持って言える芭蕉に師の言語陶冶の一つの達成を見ているのである。特に、其角の「此木戸や錠のさされて冬の月」の上五に関する一挿話もそうであるが、上五の「柴戸」か「此木戸」かの評価の問題で、芭蕉は「此木戸」の語がいいとして、「かかる秀句は一句も大切であれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし」と命じたという。一句のためなら、選句集『猿蓑』の〈出板〉を差し止めてもいいというのは、経済的損失を無視してでも選句集を厳正にしたいという気持ちの表れである。「此木戸や」は「下京や」の挿話と同じく、「取合」の重要性もさることながら、一字一句もおろそかにしない芭蕉の厳正な姿勢がひしひしと伝わってくる。芭蕉の厳しさ、それは俳諧の厳しさと言い換えてもいい。  ところで、芭蕉の俳諧思想の中核をなすものが当時の御用学である朱子学であることは周知の事実である。芭蕉俳諧と朱子学との密接な関係について、野々村勝英氏は、「岩端やここにもひとり月の客」の条にも見られる芭蕉の「ことに風狂に関するかぎり、仏教的狂は姿を消し、直接的には朱子学的な発想に林註を媒介とする壮士の思想が加わって成立したもの」(「俳諧と思想史」『日本古典文学鑑賞 第三三巻 俳句・俳論』角川書店・昭和五二・一〇)とも述べられている。この〈風狂〉は一歩たりとも滞ることなく、新風を求め続けた芭蕉俳諧の原動力となったものである。父はもちろんのこと、兄や弟も朱子学者で知られ、そういう知的環境のなかで育った身であるならば、去来自身もまた生まれながらにして朱子学思想の素養の持ち主であったと考えられる。従って、この句に対する芭蕉の厳しい態度は同じ思想の持ち主である去来の心情に強く訴えかけてくるものであったろう。  芭蕉の「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」「海士の家は小海老にまじるいとどかな」の一条では、凡兆との比較論争で、「病雁を小海老などと同じごとく論じけり」と言って笑ったという挿話がある。この芭蕉の〈笑ひ〉の真意はつかめぬものの、少なくとも去来はこの芭蕉の〈笑ひ〉を後ろ楯にして自己の評価の正しさを示したかったのである。「病雁」の句を評価する去来の言い分としては、この句が「格調高く趣かすか」な心境句で、高邁な心を持っていなければ作れないものだということだろう。しかしここでむしろ注意すべきことは、句の評価の視点を精神性に置き、芭蕉の偉大さを強調しようとしていることである。去来の思想的資質がおのずから滲み出ているのである。「行く春を近江の人と惜しみけり」の条でも、この句の評を芭蕉に求められて、芭蕉の本情論に沿う答えをしたことによって、「汝は去来、ともに風雅を語るべきものなり」と褒められている。もちろん本情把握論は当時の朱子学的世界観にもとづくものであるにしても、対象に観入し、宇宙の生命と感合することによって、自己の本性を明かにし、宇宙の生命を捉えるという儒家の「格物究理」の説を誰よりもわきまえていることを芭蕉に認められたと思ったことだろう。ここに朱子学という精神哲学を共有するものの自負として、芭蕉の句の真の理解者は自分であり、自分こそ芭蕉の直弟子であることを言外に表明しているのである。  この去来の態度は我田引水の感はまぬがれぬが、そういう自負があるゆえに、丈艸の「うづくまる薬罐の下の寒さかな」に対する芭蕉の評にまつわる最期の教訓の真意を伝えることができたのである。師の病床に侍る者たちの緊迫した状況のなかで、丈艸の句の情景一致の深さに対して、「かかるときは、かかる情こそ動かめ」と述べて感動を隠し切れないでいる。ここでいう〈情〉とは誠、真情の意と解するならば、去来は芭蕉が生涯求め続けてきた儒学思想の誠をしっかと悟得しているのである。いわゆる不易流行とは対立した概念ではなく、誠の上に立脚し、誠を追求するところに生じるものである。この誠への不断の実践こそが芭蕉俳諧の神髄である。このように、去来は芭蕉の直弟子の意識のなかで俳諧の厳しさを述べることが『去来抄』執筆の目的であった。そして、この芭蕉俳諧の厳しさを伝える行為こそは、新風を興すことが『去来抄』執筆でしかなしえないと悟った者の取り得る唯一の方法であったといえる。  とはいっても、去来にとって〈本意なき事〉の〈本意〉とは、やはり新風を実作で示すことだったにちがいない。それは、芭蕉の後ろ盾によって二、三の新風を興せば「天下の俳人を驚かさん」という自負があったことからも類推できる。しかしそれ以上に芭蕉の身近にいて、なんら俳論書を残さず、実作で新風を絶えず作り出していった芭蕉の姿を目の当たりにしてきたからにほかならない。実作こそ俳諧の本道だとの思いである。従って、「いと本意なき事なり」という嘆息は、俳諧への情熱を喪失したものの嘆きでは決してなく、実作そのものから遠ざからざるを得ないものの嘆きである。『去来抄』執筆だけでは解消できない去来の無念さが否応なく伝わってくるのである。